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らすかるすずか
  北海道
タケコとマコ〜砂の女王ホクトベガと名牝の娘マックスジョリー
2015/03/25 20:51

今週土曜日は、世界最高賞金レースをメインとするドバイワールドカップデー。
ヴィクトワールピサとトランセンドの日本馬ワンツーフィニッシュが、日本の人々に勇気と感動を与えたのは記憶に新しいが、彼らの快挙の陰に、多くの先駆者がいたことを忘れてはならない。
1996年、第1回ドバイWCに挑戦し、6着となったライブリマウント。
2001年、今でも牝馬では最高着順の2着に逃げ粘ったトゥザヴィクトリー。
しかし、多くの人がどうしても忘れられないのは、1997年に挑戦しながら砂漠の地にその命を散らしたホクトベガだろう。

1990年、浦河の酒井牧場に産まれた彼女。
その1か月後、二冠牝馬マックスビューティも酒井牧場でリアルシャダイとの間の牝馬を産んだ。
それがマックスジョリー。
ホクトベガはタケノファルコンの仔だから「タケコ」、ジョリーはマックスビューティの仔だから「マコ」と呼ばれていたという。
ふたりは母と過ごした日々の中で、もしかしたら一緒に追いかけっこをしたり、仲良く戯れたりしていたのかもしれない。

ホクトベガとマックスジョリーが初めて同じレースに出たのは、1993年の牝馬クラシック第一弾、桜花賞。
ここではジョリー3着、ホクトベガ5着に終わり、次走のオークスでもジョリー3着、ホクトベガ6着と、ともに結果を出せなかった。

その後ジョリーは怪我により戦線離脱、一方のホクトベガは秋のクイーンS2着、ローズS3着と調子を上げ、エリザベス女王杯であのベガを破る大金星。
「ベガはベガでもホクトベガ!」
9番人気で春の女王を破った驚きが、この実況にも表れている。

こうしてG1馬となったホクトベガだったが、この後不振を極めることになってしまう。
次に勝ったのは翌年夏の札幌日経オープン、続いて札幌記念も勝つが、またもスランプに陥り、牝馬限定戦でも2着がやっと、という日々が続く。
一方のジョリーは、度重なる故障のため、94年の夏に現役を引退。
故郷へと一足先に帰って行った。

ホクトベガにとって転機となったのが、95年である。
この年から中央と地方の交流重賞路線が本格的に整備され、移籍せずとも地方馬が中央で、中央馬が地方で走るチャンスが増えた。
そこでホクトベガ陣営は、矛先を交流重賞の一つ、川崎のエンプレス杯に向ける。
ここで彼女は、不良馬場の中後続に18馬身という圧倒的な差をつけ、見事優勝。
ダート適性の高さを、これでもかというほどのワンサイド・ゲームで見せつけたのである。

翌96年の川崎記念以降、砂のレースではほぼ無敵の状態であった。
帝王賞なども含め重賞7連勝。
途中2回の芝のレースではいずれも敗れているが、ダートに限れば9戦9勝。
その走りは、見る者すべてに強いインパクトを与えた。
97年の川崎記念連覇を手土産に、彼女はドバイへと旅立つ。

その頃、マックスジョリーはデインヒルの仔を身ごもっていた。
タケコのことを覚えていたかはわからないけど、マコはタケコに早く故郷に帰ってきて欲しいと思っていたのだろうか。

だが、そのままホクトベガは、二度と帰ってくることがなかった。
ドバイワールドカップのレース中、転倒して故障発生。
「砂の女王」の物語は、あまりにも非情な幕切れを迎えた。

4月22日、ジョリーは女の子を出産。
だが出産後動脈破裂を起こし、間もなくジョリーもまた天へと召されていった。

タケコとマコ、すなわちホクトベガとマックスジョリーの物語も、ここですべて終わってしまう。
当時はそう考えたものである。
だが、物語は続いていた。

ホクトベガの事故から14年後、日本馬が初めてドバイワールドカップに優勝。
そしてジョリーが遺したただ一頭の子、ビューティソングの娘、ココロノアイが今年のクラシックの有力候補と言われている。

まるで奇跡のような、こんなことが本当にあるのかというくらいふたりの物語は新しい展開を続けているのだ。

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