今日は木曜日、タイミング的には少し早いし、馬の写真も用意できないが、明日以降執筆できるかわからないので今日、スプリングSゆかりの馬をご紹介したい。
スプリングSと聞いて私の世代がいまだに思い出す馬は、マティリアルを置いてほかにはないだろう。
1984年、無敗の三冠馬が誕生した年にこの世に生を受けたマティリアルは、父パーソロン、母の父スピードシンボリ。
奇しくも、その三冠馬シンボリルドルフと同じ血統構成である。
加えて幼駒時代よりその素質は高く評価されており、和田共弘オーナーは期待を込め、敢えて冠名「シンボリ」を付けなかったという。
その視線の先にはG1はもとより、「世界の競馬」があったのだろう。
何よりもこの馬を有名にしたのが1987年のスプリングSでの破天荒な走りである。
4コーナーまで最後方を進みながら、そこから豪脚一閃、直線で11頭をごぼう抜きするという、およそ3歳馬らしからぬ走りで重賞を制覇したのであった。
鞍上の岡部騎手がレース後、「ミスターシービーしちゃった」と軽口をたたいたのは、馬に負担をかけずにスマートに勝つ競馬を身上にしていたにもかかわらず、その逆を行って勝ってしまったことへの照れ隠しだったのかもしれない。
ともかく、こうした経緯があって彼は一躍、1987年牡馬クラシックの大本命と目されることになる。
しかし当然のように1番人気に推された皐月賞では3着、続くダービーでは18着と、サクラスターオー、メリーナイスらを相手に見せ場すら作れずに終わってしまった。
菊花賞時には鞍上に岡部騎手の姿はなく、スターオーが2冠を達成する中13着に終わる。
なぜ彼は期待に応えられなかったのか?
その原因は、オーナーをはじめとする関係者に加え、私たちファンまでもが、いたずらに彼を「シンボリルドルフに匹敵する逸材」と持ち上げ、彼の本当の適性を見抜けないままプレッシャーを掛けつづけたからであろう。
その後も、古馬の王道路線で低迷を続けていたマティリアルだったが、1989年の関屋記念で2着と、2年ぶりに連対を果たす。
このころにはファンを始め和田オーナーもかつての熱狂を忘れており、余計なプレッシャーから解放されたからでもあっただろうが、この好走が示していたのは彼の適性が「マイル〜中距離」にあることであった。
陣営も手ごたえをつかみ、秋のマイル路線へとマティリアルを送り出すことになる。
その緒戦が、京王杯オータムハンデだった。
鞍上には久しぶりに岡部騎手の姿があった。
スタート後、場内から歓声が上がった。
それは、いつも後方からレースをしていたマティリアルが、スッと先団に取りついたからである。
そのまま好位を保ち、直線抜け出してあっさりと勝利。
実に2年半ぶりの白星であった。
岡部騎手も珍しく、小さくガッツポーズをした。
…その後のことは、もう思い出したくない。
突然マティリアルは減速し、岡部騎手は下馬する。
馬運車に載せられて退場するマティリアル。
検査の結果は、右前第一指節種子骨複骨折。
予後不良級の怪我であったが、関係者はわずかな可能性に賭けて手術を受けさせた。
しかし麻酔が切れた後の彼は痛みに耐えかねてストレス性の出血性大腸炎を起こし、レースから4日後にこの世を去った。
マティリアルという鹿毛馬が教えてくれたこと、それは、競走馬は人間の夢や欲望という「ハンデ」を背負って走っているということである。
一瞬煌めいたために以後その幻影に悩まされ、本来の実力を発揮できずにターフを去っていく馬は多い。
馬が、その馬らしくあるために何をしてあげられるかが、人間の役割であろう。
…とはいえ、どうしてもあのスプリングSの豪脚が忘れられないのは、人間の「業」というものなのだろうか。
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