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らすかるすずか
  北海道
チョウカイキャロルと中京記念
2015/07/23 22:54

思えば、1994年の4歳(当時)牝馬は、実に多彩な顔ぶれであった。
外国産馬ゆえにクラシックに出走できなかったヒシアマゾン、兄の無念を晴らすクラシック制覇となったオグリローマン、持ち込みの良血馬ゴールデンジャック、バンブーアトラスの愛娘アグネスパレード、悲運の美少女メモリージャスパー…。
そんな中で牝馬最高の栄誉、オークス馬に輝き、古馬になってからも奮戦したのがチョウカイキャロルである。

1991年に産まれた彼女の父はブライアンズタイム。
ナリタブライアンとともに父の初年度産駒にあたる。
母の父はMr.Prospector。
栗東の鶴留明雄厩舎に入厩し、1994年1月にデビュー、1番人気に応えてエミネントバイオ以下を大差で下して勝利した。
鞍上は小島貞博騎手。
戸山為夫調教師の死後、馬に恵まれていなかった小島騎手にこの素質馬の手綱を委ねた鶴留調教師もまた、戸山師の弟子である。
以後、全レースで小島騎手が騎乗することとなる。

次走のセントポーリア賞で2着となり、フラワーCでもオンワードノーブルに敗北を喫したことで桜花賞への出走の道は閉ざされた。
次に矛先を向けたのが忘れな草賞。
「残念桜花賞」とも呼ばれるこのレースを、ダンツヒスイ以下に4馬身付けて勝利し、勇躍オークスに向かった。

当日の1番人気は桜花賞馬オグリローマン。
彼女は2番人気に推された。
ここでは好位4番手に付けると直線力強く抜け出し、後ろから脚を伸ばしたゴールデンジャックに3/4馬身差をつけ、見事樫の女王の座に輝いたのである。

秋、サファイヤS2着からエリザベス女王杯に出走。
ここでついに裏路線から駒を進めたヒシアマゾンと激突する。
1番人気がヒシアマゾン、キャロルは2番人気。
好位から粘り込みを図る彼女に、後方から鋭く追い込んできたアマゾンが襲い掛かり、両馬がほぼ並んだところがゴール。
写真判定の結果、アマゾンがついにG1タイトルを獲得したのだった。

年末の有馬記念でこそ凡走したが、翌1995年緒戦の京都記念で同じ牝馬のワコーチカコの4着となる。
6着のライスシャワーに先着したことで、オークス馬の意地を見せつけた。
ここから、当時3月に行われていた芝2000メートル戦の中京記念に出走したのである。

ここにはイイデライナーやダンシングサーパス、メイショウレグナムなど牡馬の重賞常連馬が顔を揃えていたが、いずれも近走不調であったこともあり、キャロルが1番人気に推される。
道中7〜8番手で競馬を進め、4コーナーで逃げるテンザンユタカ、さらに前々で競馬をしていた2番人気のタイキデュークをとらえると、あとはゴールへ一直線。
見事、牡馬との混合重賞を制したのであった。

この後、春の2000メートル重賞だった京阪杯でダンツシアトルの2着とした後、上半期のグランプリ、宝塚記念に出走した。
だが、このレースでは12着と大敗を喫してしまう。
しかもこの宝塚記念は、ライスシャワーが悲劇的な最期を遂げたレースとして記憶されることとなってしまい、レコードで勝ったダンツシアトルでさえ顧みられることが少なかったのは不運であった。

この後の彼女は真菌性喉嚢炎という奇病を発症し、レースに出ることなく引退。
繁殖入り後も目立った産駒を出すことなく、2012年に繁殖からも退き、以後は故郷の谷川牧場で悠々自適の生活を送っている。

ヒシアマゾンという「見えざるライバル」を意識せざるを得なかったとはいえ、同世代の内国産馬では明らかに一枚上手の存在であった。
その功績が顧みられないのが残念だが、栗毛の馬体に女の子らしいかわいい名前の彼女は、私の記憶の中に「けなげなお嬢さん」として、いつまでも残っていくだろう。

写真は2013年秋、谷川牧場にて。

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