伝統のハンデ重賞、福島の七夕賞は、「1番人気が勝てないレース」として知られる。
1978年を最後に、2005年にダイワレイダースが勝つまで1番人気の馬は26連敗。
夏のローカル開催のハンデ戦で、夏競馬の始まりということもあり各馬の力関係が把握しづらいから、ということもあるかもしれない。
1995年、20年前の勝ち馬フジヤマケンザンも、2番人気でここを制したのち、世界へと羽ばたいて行った馬である。
1988年、テンポイントで知られる早来の吉田牧場に産まれた彼の父はラッキーキャスト。
不出走ながら、母が世界的名牝タイプキャスト、姉が天皇賞(秋)勝ち馬プリテイキャストという良血を買われて種牡馬入りした。
母ワカスズランの祖母はワカクモで、テンポイント一族ということになる。
1991年、4歳(当時)の新春に京都でデビューし、5着と敗れたが折り返しの新馬戦を勝利。
ところが骨膜炎に見舞われて春は全休となる。
彼が休んでいる間に牡馬クラシックではトウカイテイオーが無敗の二冠を達成していた。
秋に復帰して条件戦を勝利した後、準オープンの嵐山Sで2着として最後の一冠、菊花賞に出走する。
テイオーが骨折で不在の中、8番人気と評価は低かったがレオダーバンの3着と健闘した。
翌1992年の緒戦、ジャニュアリーSで勝利すると、ダイヤモンドSを8着としたのち3月の中日新聞杯(当時は父内国産馬限定戦)で重賞初勝利を挙げる。
だが再び脚部不安を生じ休養、12月の復帰戦を勝利したが年末の有馬記念では14着と大敗を喫した。
この頃、管理する戸山為夫調教師は癌で療養しており、ケンザンの手綱を取った愛弟子、小島貞博騎手の胸中は如何ばかりのものだったろうか。
1993年は、6戦して未勝利に終わる。
この年、戸山調教師が他界し、管理は森秀行調教師に引き継がれた。
これに伴い小島騎手も主戦から退くことになる。
1994年、重賞でも勝ちきれない競馬を続けていたが、夏の福島の吾妻小富士OPで久しぶりに勝利。
前走から騎乗していたのは蛯名正義騎手で、ここから主戦として定着する。
続く新潟のBSNオープンも勝ち、ローカルでの強さを見せつけた。
この年の秋は古馬王道路線にチャレンジしたものの不振だった。
それでも森調教師は、彼を香港国際カップへと遠征させる。
これは前年にも登録しながら出走を果たせなかったものだが、追い込んで4着と健闘した。
1995年。
既に8歳(当時)となっていたものの、彼は現役を続ける。
緒戦の中山記念で重賞2勝目を挙げたのち再び香港に遠征。
クイーンエリザベス2世Cで2番人気に推されたが10着だった。
宝塚記念で11着と続けて大敗したのち、七夕賞に駒を進めたのだった。
1番人気はインタークレバー。
2番人気にケンザンが推され、これにダイゴウソウルが続いた。
テンジンショウグンとエーピードラゴンが競り合って先導する中、7番手に付けたケンザンは、3コーナー手前から進出を開始し、4コーナー前で早くも先頭。
最後はインタークレバーとの競り合いとなったがこれを3/4馬身制したのである。
秋は富士S(オープン特別)でタイキブリザードを下した後、ジャパンCに目もくれず香港へ。
香港国際カップで8番人気ながらレコード勝ちを収めた。
日本調教馬の海外重賞制覇は1959年のハクチカラ以来のことである。
結果、この年のJRA賞最優秀父内国産馬に選出されたのであった。
1996年も現役を続け、金鯱賞を勝ったが骨折し、引退した。
38戦12勝。
ミホノブルボンと並んで戸山調教師最後の傑作であり、森調教師の国際派としての名を高めた競走人生だった。
引退後は種牡馬となったが、活躍馬を出せずに登録抹消。
現在は功労馬としてのんびり暮らしている。
その眼差しは、どこか近親のテンポイントに似ているようにも思うが、如何であろうか。
写真は2013年秋、吉田牧場にて。
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