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らすかるすずか
  北海道
ミホシンザンと天皇賞(春)
400 2015/04/28 19:13

かつて、春の盾を制することは、最強馬の証でもあった。
タマモクロス、メジロマックイーン、ビワハヤヒデと言った芦毛の勇者たちも、このレースを勝つことでその地位を不動にしたと言えよう。
1987年の天皇賞(春)の覇者、ミホシンザンにとっても、この勝利は最強馬の系譜に連なるためにもどうしても必要なものであった。

1982年に産まれた彼の父は、五冠馬シンザン。
長く、「シンザンを超えろ!」という言葉に象徴されるように日本競馬の目指すべき存在であり続けた。
早くからその素質を評価されたミホシンザンは、その後継者となるべき宿命を、生まれながらにして持っていたのかもしれない。

4歳(現3歳)の1月にデビュー勝ちした彼は、400万条件特別、重賞スプリングSと順調に勝ち上がり、クラシック第一弾皐月賞も難なく制した。
主戦は柴田政人騎手。
この時点でだれもが、「親子での三冠」を期待したはずである。

ところが、皐月賞のレース後に骨折が判明し、ダービー出走を断念。
「親子での三冠」は幻に終わった。

秋には復帰し、緒戦セントライト記念で初の敗北を喫するも、続く京都新聞杯では鮮やかに勝利、最後の一冠菊花賞に駒を進める。
ダービー馬シリウスシンボリは海外遠征に旅立ち不在、スダホークやサクラサニーオーなどの実績馬、サクラユタカオーら新興勢力が顔を揃えた中1番人気に支持され、見事快勝。
世代最強の名声を得ることになった。

続く有馬記念こそ、「世界のシンボリルドルフ」の前に2着に終わるも、この年の最優秀4歳牡馬、最優秀父内国産馬に選出され、ルドルフが海外に闘いの場を移すことから翌年には古馬の大将格と見做されるはず、であった。

ところが古馬としての第一戦日経賞で6着に敗れたうえ、二度目の骨折。
戦線を離脱する。
この1986年の春の天皇賞を勝ったのは、皐月賞でミホシンザンの前に敗れたクシロキングであり、改めてミホシンザンの不在が惜しまれたものである。

秋に復帰するも、毎日王冠、天皇賞(秋)、ジャパンC、有馬記念と4連続で3着。
年度代表馬の座も年下のダイナガリバーに奪われてしまう。
輝きは色褪せたかに見えた。

それでもへこたれないのが、ミホシンザンである。
翌1987年、AJCCで久しぶりの勝利を挙げると、続く日経賞も快勝、天皇賞(春)へと駒を進める。

10頭立てとなったこの年の天皇賞(春)は、前年の覇者クシロキングを始め、ライバルスダホークや、ルドルフ世代の生き残りニシノライデン、「未完の大器」アサヒエンペラーなど、実力馬たちが顔を揃えた。

直線早め先頭に躍り出たミホシンザンに、ニシノライデンが襲い掛かる。
そこにアサヒエンペラーも加わるも、最後はミホシンザンとニシノライデンが並んでゴールイン。
写真判定の結果、ミホシンザンが優勝し、ここに彼は「シンザンの最高傑作」へと名実ともに上り詰めたのであった。

なお、2位入線のニシノライデンはアサヒエンペラーの進路を妨害し、失格。
一説では、この馬の存在がのちに降着制度が導入されるきっかけになったともいわれる。

この後のミホシンザンは疲労が抜けず、そのまま引退した。
通算16戦9勝、父の域には及ばなかったにせよ、その存在はファンに「血の継承」という競馬には欠かせない要素の大切さを再認識させた。
当時は内国産種牡馬が低く見られていた時代であり、そんな中にあっての彼の奮闘は、後に続く者への大きな道しるべとなった。

種牡馬となったミホシンザンは、マイシンザンなどの素質馬を出したものの、全体的にその成績は低調で、マイシンザンが種牡馬を引退した時点で血の継承者は途絶えることになる。

それでも父譲りの生命力は群を抜いており、2014年の12月に没した時には32歳という長寿であった。

写真は2013年秋、谷川牧場にて。

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