今週行われるオークストライアル・フローラSは、馬齢表記変更前はサンスポ賞4歳牝馬特別という名称であった。
勝ち馬にはメジロラモーヌやマックスビューティ、スティンガーなどの名牝が名を連ねている。
現在でこそ桜花賞で好走した馬はオークスに直行するのが当たり前だが、ラモーヌやビューティのようにこのレースでオークス前の一叩きをする馬が、昔は多かった。
1982年の勝ち馬、リーゼングロスもそんな一頭である。
リーゼングロスの父はリーディングサイアー、アローエクスプレス、母はタケノダンサーで、半妹にはエリザベス女王杯勝ち馬のタケノベルベットがいる。
1981年、夏の北海道でデビューした彼女は緒戦を勝利するものの、次走北海道3歳Sで9着、その後は400万条件で走り黒松賞を勝ってオープン入りし、関東の3歳牝馬ナンバーワン決定戦、3歳牝馬Sでビクトリアクラウンの8着と惨敗、この年を終える。
デビュー当初の関係者の期待に、この時点では応えられなかった。
しかし明けて4歳、阪神4歳牝馬特別で、トウメイの主戦でもあった清水英次騎手の手綱で7番人気ながら2着に入り、本番の桜花賞ではマンジュデンレディに次ぐ2番人気に支持される。
レースでは好位につけて直線力強く抜け出し、2着メジロカーラに5馬身差をつけ、牝馬最初のタイトルを獲得したのであった。
私は当時まだ競馬を見る前だったが、金色の馬体が晴れ渡った春の空の下、輝いて見えたことだろう。
続くサンスポ賞4歳牝馬特別は、彼女にとって3歳時の黄菊賞以来の府中でのレースであった。
1番人気に支持され、2着ユーセコクインに半馬身差に迫られながらも勝利。
クラシックホースにふさわしい走りを見せた。
因みにこのレースに出走していた馬の中に、ヤマノシラギクがいる。
この時は4番人気で4着と、さほどいい成績ではなかったが、のちに彼女は京都大賞典など重賞3勝を挙げたのみならず、中央全10場の重賞に出走するという大記録を作り、そのおしろいを塗ったような風貌も相まって、「女旅芸人」と呼ばれることになる。
1982年5月23日、24頭が集まって行われたオークスで、リーゼングロスは1番人気に推された。
ところが馬場入場後、彼女は放馬してしまう。
コースを一周ぐるっと回り、捕獲されて馬体検査を受け、競走に支障がないとしてゲートに収まったものの、その影響もあったか伏兵シャダイアイバーにとらえられ、痛恨の2着に終わった。
これでケチがついたわけではないだろうが、以後の彼女は精彩を欠くことになる。
夏の函館記念で先輩桜花賞馬ブロケードと対戦するも、12着(ブロケードは4着)。
その後脚部不安でエリザベス女王杯など秋のレースに出走せず、明けて5歳、府中のエメラルドSで復帰したが9着、以後重賞に出走し続けて天皇賞(秋)で5着と健闘するも、勝利を挙げられないまま目黒記念(秋)の7着を最後に引退、繁殖入りした。
当時、というより1996年以前の牝馬は、古馬になって以降大半のレースを牡馬と戦わなくてはならなかった。
エリザベス女王杯が古馬に開放されていなかったし、牝馬限定重賞もこの時代には牝馬東タイ杯などわずかしか存在しなかった。
先述したヤマノシラギクのように牡馬相手に重賞を勝つ牝馬はいたけれど、全体として牝馬と牡馬の力量差は如何ともしがたく、苦戦を強いられるばかりであった。
そうした中で、リーゼングロスの天皇賞5着という成績は、充分誇れることだろう。
繁殖としては七夕賞を勝ったリーゼンシュラークを産んだが、後継牝馬には恵まれず、というよりも繁殖入りした仔がエンゲルリーゼン1頭だけであり、その血は今はもう途絶えてしまっている。
リーゼングロス自身も、2007年3月にこの世を去った。
写真は2006年秋、マツケン農場にて。
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