1987年クラシック世代というのは、妙に印象に残る馬が多い。
先日ご紹介したマティリアルもそうだし、メリーナイス、ゴールドシチー、サニースワロー、そしてクラシックと縁のなかったタマモクロスなど。
その中で、最もファンの印象に残っている馬が、サクラスターオーであろう。
1984年に藤原牧場で産まれたスターオーは、父サクラショウリ、母サクラスマイル。
牝系はスターロッチの系譜に属し、スターオー誕生当時もそのスターロッチは健在であった。
だが、生後間もなく、母サクラスマイルは腸捻転で急死。
幼いスターオーは、横たわった母を起こそうとするかのように、必死に体を擦り付けていたという。
以後の彼は4代母にあたるスターロッチを乳母として育つ。
更に、デビュー前にはずっと見守ってきた牧場長の藤原祥三氏もこの世を去る。
このように、スターオーは初めから様々な不幸を背負っていたのである。
1986年10月にデビュー。
折り返しの新馬戦を勝つと、骨膜炎による休養を挟んで寒梅賞で復帰、5着。
その次走が弥生賞だったのだが、これ以降は鞍上が「サクラ」の主戦騎手小島太騎手から、東信二騎手へと乗り替わる。
この弥生賞を6番人気で勝つと、いよいよ皐月賞に臨むことになる。
この年の皐月賞は、スプリングSで豪脚を披露したマティリアルが1番人気であり、スターオーは2番人気であった。
14番手から徐々に押し上げていき、最後は3歳王者ゴールドシチーを差し切って、見事一冠目を獲得。
東騎手にとって初のクラシック制覇であった。
弥生賞以降、最後のレースまで騎乗した東騎手であるが、その異名「代打男」からわかるように、それまでの彼は有力馬に乗るときは決まって他の有力騎手が何らかの都合で乗れない時の代打であり、決して主役とは言えない存在であった。
しかしスターオーでクラシックを制覇したことは、そんな地味な騎手が一躍脚光を浴びるきっかけとなった。
だが、好事魔多し。
スターオーは繋靭帯炎を発症し、ダービーを断念、休養に入る。
ここで三冠は幻となった。
怪我の回復には予想以上の時間がかかり、彼がトレセンに帰ってきたのは9月の半ばであった。
菊花賞トライアルにも間に合わず、スターオーはぶっつけで菊花賞に臨むこととなる。
ダービーを勝ったメリーナイスは秋緒戦のセントライト記念を快勝しており、本番でも1番人気。
スターオーは9番人気という低評価であった。
この低評価に、東騎手は立腹するとともに「なんとしても勝ってやる!」との決意を固めたという。
菊花賞は、1番人気のメリーナイスが1周目のスタンド前で引っ掛かり、レオテンザンが引っ張る展開となる。
その中で、じっくりと構えたスターオーは、4コーナーを過ぎて東騎手がゴーサインを出すとあっという間に前の馬をとらえ、先頭に。
最後はゴールドシチー、ユーワジェームスを退け、見事優勝した。
休み明けの劇的な勝利に、実況していた杉本清アナウンサーが「菊の季節に桜が満開、菊の季節にサクラ、サクラスターオーです!」と驚きの声を挙げたのはあまりにも有名である。
こうした経緯もあり、年末の有馬記念ではファン投票1位、そして当日のオッズも1番人気に推されることになる。
古馬の大将格、ミホシンザンが引退して主役不在となっていたことも大きいだろうが、やはりファンの心を掴んだのがスターオーだったということだろう。
だが、レースではスタート直後にメリーナイスが落馬、早くも波乱の雰囲気が漂う。
そして4コーナーでサクラスターオーが突如競走を中止する。
下馬した東騎手は、悔しさのあまりヘルメットを地面に投げつけた。
左前脚繋靱帯断裂・第一指関節脱臼。
予後不良と診断されるほどであったが、陣営は治療を選択する。
その後の彼の闘いの様子は、東騎手の妻、葉子さんの著書『ガラスの脚』に詳しく描かれている。
しかし、どんなに人々が努力しても、彼が快方に向かうことはなかった。
とうとう立っていることもできなくなり、1988年5月12日、安楽死。
今わの際のスターオーを見守ったのは東騎手夫妻、平井調教師夫妻、萩原厩務員夫妻。
最後に東騎手がスポイトで水を飲ませてやり、彼は虹の橋を渡っていった。
思えばサクラスターオーという馬は数奇な星の下に産まれた馬であった。
競馬に事故はつきものではあるけれど、これほどまでに起伏に富んだ生涯が最も悲しい形で閉じられてしまったことが、逆にファンの心を動かすのかもしれない。
あの事故から28年、文字通りスターオーは星になって後輩の馬たちを見守っている。
その星が、幸せの星であってほしいと今も思う。
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